第五話
「アリカ、」
要と棗に空いている部屋を貸し、二人が部屋へと行きようやく二人きりになったところで、世賭は口を開いた。
「さっきの続きだ。“聖”っていうのは何だ?」
本当は、聞かないつもりでいた。だが、今回また“聖”の名が出たことと、翠の件から気を紛らわせたいのもあって、世賭はアリカに聞いた。どうしてか頭の中で引っかかる、“聖”のことを。
「・・・敵」
「それだけじゃわからない」
本当なら、関わらせたくなかったの。そう、アリカは言った。
「私の昔の敵。ううん、今もかな。私のことを気に食わないのか、でもそれ以外の理由がある気がするけど、とにかく私を狙っている組織。
その頂点にいる、創始者であり、私を憎んでいる奴の名が『聖』。だから、その組織を“聖”って呼んでいるんだけど。聖は私を狙っていると同時に、《絶対権力者》である皇帝の座を狙っているらしいの」
このまえの黒い奴等、リゼルとリデル、全員“聖”の手下だ、とアリカは言った。
「だから、強い奴も“聖”たちは狙う。わかるでしょ? 強い奴らは皆、皇帝になるのに邪魔だもの。きっと、世賭と翠も狙われているわ・・・きっといずれ、私と“聖”たちの戦いに巻き込まれることになる」
アリカの表情は暗く、沈んでいた。
「ごめんなさい。私のせいだよね」
「・・・別に、お前のせいじゃない。僕らが勝手にアリカを助けただけだし。それに・・・」
髪を掻き揚げながら、世賭は紅茶を飲み干した。
「お前は僕らの仲間だ。仲間の敵と戦うのは当然だろう?」
アリカは驚いた顔で、世賭を見つめた。
「仲間・・・なんて、初めて言われた」
「翠もそう思ってるよ」
(でも、)
世賭は思った。
(もしかすると、翠は・・・)
誰よりも仲間を大切にする翠。約十年も一緒にいる世賭を選ばないはずがない、だが。
(なんだか、ひっかかる)
何かに無理矢理突き動かされているような、操られているような。そんな気がして、ならないのだ。
*
「“蜜鏡”たちは上手くやっているようです。このまま行けば、凍城翠を操れるかもしれません」
「あいつらは優秀な魔術師だ。優秀な魔術師は、多少の幻術も使うことが出来る。凍城翠を惑わせるぐらい、容易いだろう」
「そうですね。さて、彼らはこれからどう動いてくれるでしょうかね・・・」
*
殺したはずだった。憎き従兄弟たちは全員、この手で殺したのだ。祖父を罵倒し、翠を蔑んだ彼らは、もうこの世にはいない。
「なのにどうして・・・ッ」
――― 世賭やアリカではなく、要と棗を選んだほうが良いのだろうか。
ふ、と翠はそう思った。否、そう思ってしまった。
(殺したはずの従兄弟たち。その中に彼らは含まれていなかった。だけれど、要も棗も確かに僕の従弟)
血縁関係があることは、顔を見ればわかる。いや、顔だけではない。彼らが纏う雰囲気や小さな仕草、ちょっとしたことだけれど翠を思わせるものがあるのだ。
(従弟なのは嘘ではないでしょう。でも、どうやって僕の眼を掻い潜った?)
翠が殺した従兄弟の中には、翠が逢ったことの無い者もいた。全て、全員、一人残らず、翠は調べ上げて殺したのだ。
――― だが、要と棗は翠に気付かれることなく生きている。
「・・・やっぱり、」
要と棗を選ばないと、いけないのかもしれない。それが、僕の運命であるような、そんな気がする。
「幻術で操られてでもいるんでしょうかね」
自嘲するかのように、翠は呟いた。
(まあ、そんなこと在り得ませんけど)
凍城家は代々、魔術師の血は一切無いといわれており、剣一本で生きてきた家だ。魔術の派生である幻術を、要と棗が使えるはずが無い。
(・・・それも定かではないかもしれないけれど)
ふと窓の外を見れば、今にもゆらゆらと揺らめきそうな上弦の月が煌々と輝いていた。今の自分の心を映しているようにも思える。
「全ては僕次第・・・か・・・」
歪んだ笑みが、零れた。
*
朝。世賭はゆっくりとベッドから起き上がり、上着を着てカーテンを開けた。
「――― 翠」
翠ならば自分たちを選んでくれるだろう。そう信じているのに、何故か不安になる。どこかで、翠は要と棗を選んでしまうのではないか、と思ってしまう。
世賭はカーテンに触れたまま、立ち尽くしていた。
「翠・・・」
何度、この名を呼んだだろう。一緒にいるときも、一人でいるときも、戦っているときでも、自分はこの名を呼んだ。翠がいつでも自分の傍にいることを、確かめるかのように。だが、もしも翠が、要と棗を選んだら――― もう、この名は呼べない。
不意に、ノックの音が聞こえた。
「・・・何だ」
世賭は見るまでも無く、翠だとわかった。気配と雰囲気のそれだけで、なんとなしに。
「どうした」
「世賭・・・」
困ったような、笑み。だが、どこか歪んだ笑み。そんな笑みを、翠は浮かべていた。
「世賭、僕はどうすればいい?」
「・・・それはお前が決めることだ。僕にはそれを決める権利は無い」
翠の歪んだ笑みが、更に深いものへと変わった・・・気がした。
「どうして、そんなことを言うの」
「僕には・・・決めるのは、無理だからだ」
世賭はゆっくりと翠から目線を逸らし、窓を眺めた。上には美しい青空が見えるというのに、下のほうは黒い雲で覆われていた。
「無理なんかじゃない・・・そんなこと、言わないで・・・そうしたら僕は、」
選んでしまうのか? 要と棗を? 従弟を? 憎き凍城を・・・?
「ごめん」
翠はそう言うと部屋を出て行った。世賭は、黙って空を見ているしかなかった。
*
いつもより早く眼が覚めたアリカは、物音を立てないようにそっと、廊下へと出た。ふと見ると、翠の部屋の扉が空いている。覗いて見れば、部屋は無人だった。
「世賭の部屋でも行ったのかな・・・?」
翠が要と棗を選ぶとは思えない。すぐさま世賭と自分を選ぶと思っていた・・・それなのに。
「なんで・・・考えさせて、だなんて・・・」
翠は凍城家を憎んでいる。アリカはそう勘付いていた。凍城家が好きなら、世賭と二人で下剋上の世を放浪している訳が無い。
「どうするのよ・・・翠・・・」
と、そのときだった。世賭の部屋のほうから人が出て来た。
「翠?」
「アリカちゃん・・・? 珍しいですね、こんな早くに・・・」
アリカは朝が弱く、いつも昼頃まで起きてこない。その上、寝起きはかなり不機嫌だ。そのアリカがこんな早くに起きているのだから、驚くのも無理は無いだろう。
「あはは、なんか早く眼が覚めちゃって。ま、そういうこともあるよねぇ」
「そうですね・・・」
アリカはすっと眼を細め、翠を眺めた。どことなく、雰囲気や様子がいつもと違う。苦しげだが、何故か歪み切っているような・・・。
(どうかしたのかな・・・? これじゃあまるで・・・――― )
「大丈夫・・・?」
「え? 大丈夫ですよ」
にこっ、と無理矢理いつものような笑いを見せる翠。ますます不安になったアリカは尋ねた。
「なんかあったの? 世賭と・・・」
「そういうわけではありません。全ては僕の問題のせいです」
即、そう答える翠。やはり何かあったのだろう。
「要と棗のことで、喧嘩でもしたの?」
「喧嘩・・・ではありませんね。どちらかというと・・・心の行き違い、でしょうか」
「翳りが見えるの。翠の心の翳り。どうして翠は迷っているの? 翠にとっての一番は世賭でしょう? どうして世賭を選ばないの?」
「それは、僕にもわからないんです・・・」
まるで、要と棗を選ぶような言い方に、アリカは聞こえた。やはり、いつもの翠らしくない。
「翠が要と棗を選びたいなら選べばいいわ。私には関係ない。別に幻滅はしないよ。翠が決めることなんだから。
だけど、よく考えてよ。本当に大切なのは誰? 一緒にいて楽しいのは誰? 貴女が求めるのは誰? 自分が今、おかしいことに気付いて」
アリカはそれだけ言うと、自分の部屋へと立ち去った。あとに残ったのは、冷たい仮面を貼り付けた、一人の少女のみ――― 。
*
漆黒に輝く列車の中。向かい合う席に、顔の良く似た二人の少年と、少年のような容貌をした一人の少女がいた。
似通った三人の顔は、仮面でも被っているかのようで。恐ろしいほどに無表情だった。
「・・・」
夕闇に呑み込まれるような、冷たくも柔らかい西日が、少女――― 凍城翠の、頬を伝う涙に反射していた。
「――― 大丈夫? 翠さん」
「・・・・・・この涙は君たちのせいです」
「はっ、」
色素の薄い髪を掻き揚げて、片方の少年――― 凍城要は嘲るように笑った。一方、もう一人の少年、凍城棗は徹底した無表情で翠を見つめている。
「貴女が選んだんですよ? 僕らは強制していない」
「――― わかっているんですよ。僕は」
翠は流れた涙の筋を拭いもせず、吐き捨てるように言った。
「貴方たちが凍城であるのは確かです。でも貴方たちは本来在り得ないはずですが、魔術師だ。それも、かなり優秀な」
わかっていた。わかってしまった。翠のこころが揺らいだのも、翠のこころが歪んだのも、それらは彼らの幻術のせいだと。そして、幻術だけではなく――― ほんとうに、少なからず自分が揺らいでいたことも。
「優秀な魔術師は、自分の本来備わっている属性以外の魔術も使える。君たちならば容易かったでしょう、僕程度の人間を惑わし操ることなんて」
「・・・ご名答。本当に簡単だった、まるで自ら惑わされようとしているみたいでね。僕らが幻術をかけずとも、こうなっていたんじゃないかって思うほどに」
俯いた翠の肩が、ぴくりと震える。棗はそれを見て、眉を顰めた。
「幻術は微弱にしかかけていない。にも関わらず、こんなに簡単に事が進んだ。あんた、本当はこうなることを望んでいたんじゃないか・・・?」
翠は黙っていた。
心地よく揺れる列車。徐々に、大切なあの二人から離れて行く。それを感じながら翠は、一人思った。
――― 彼らの言ったとおり、僕は望んでいたのかもしれない。世賭とアリカちゃんから離れることを。本当にそうだとしたら、それはきっと、変わりたかったからだ。
(僕は弱い。世賭にいつも頼って、アリカちゃんにも頼って、そんな自分が、大嫌いなんだ)
だからこうなることを望んでしまったのではないか。
(でも、結局また流されているだけだ。自分は何も決断していない。この状況に立っても、僕は未だ迷っている)
――― 僕は、弱いままだ。
「もうすぐ着くよ」
要の声を聞きながら、翠は思いを馳せる。大好きで大切な二人のことに、思いを馳せ続ける。
*
「世賭!」
翠のいない家の中、アリカは声を荒げた。
「どうして止めなかったのよ!」
世賭はそれに答えず、ソファに寝転がり、腕で顔を覆っている。
「見ていたんでしょう!? 翠が、要と棗と一緒に出て行くのを」
アリカの言うとおりだった。世賭はただ、黙ってみていた。翠がアリカと話した後、要と棗と共に家から出て行くのを、何も言わずに、何もせずに、見ていた。遠ざかる背中を、ずっと。
「・・・アリカだって、同じじゃないか。お前も翠を止めなかった」
かすれた声で、世賭は呟いた。
日はほとんど沈み、寂寞を孕んだ夜が、薄暗い部屋に流れ込む。
「――― 私には・・・そんな権利、ないから・・・」
「僕にも無かった」
「違う!!」
アリカは漆黒の髪が乱れるのも構わず、首を大きく振った。
「世賭、貴方は翠のために自分のために、するべきことがあった・・・翠を止める権利だってあった・・・! あんな微弱な幻術、翠にとって大切な第三者が動けば解けたはずなのに・・・!」
幻術のことに気付いていたのか、世賭は驚きもせず、黙ったままだった。
「・・・どうして・・・止めなかったのよ・・・」
「・・・・・アリカも薄々気付いているんだろう、あれが全て翠の意思だったってこと」
「全て、ではなかった・・・っ!」
全てではなかった。その言葉は、明らかに肯定の意を示していた。
「この臆病者・・・っ! 何も言わなかったのは、ただ怖かっただけ、そうなんでしょう! 私と世賭は違う、私には、私みたいな人間には、何も出来ないのに・・・世賭にしか出来なかったのに・・・私に出来ることは、ほんの少ししかない・・・それなのに、私なんかより何倍もいろんなことが出来るのに、どうして・・・! 普段の男らしい世賭なら、翠のことを止めたわ! 世賭は、本当はわかってるんだよ・・・自分は翠を止められたことを・・・!」
悲痛なアリカの声が、世賭の纏う静寂に突き刺さる。世賭の身体が、微かに震えた。
「ねぇ・・・っ!」
「わかってるよ、そんなことは・・・僕にだって・・・っ」
世賭の苦しげな声。それはいつしか、嗚咽へと変わっていた。
「わかってるよ・・・くそ・・・」
何度も何度も、叫ぶ。だけど、名前は、翠の名前だけは一度も呼ばなかった。
「世賭、」
アリカは気付いた。世賭はもう、翠の名前を呼ばない。翠が“ここ”に戻ってこない限り、もう、名前を呼ばないのだと、気付いてしまった。
「翠を、取り戻しに・・・助け出しに、行こう。私が出来ることは、それだけだから、だから・・・」
「僕は・・・行かない」
全てわかっているのに、影に縛られたように動けない。否、動かない。がんじがらめになっているのは、世賭でなく翠のほうなのに。
「いい加減にして・・・っ! 世賭は逃げてるだけ・・・翠がそうしたから、なんて理由にならない! 世賭、自分のこころに従って、自分がしたいようにしてよ・・・。全てわかっているなら、翠を大切に想っているなら、影を食い千切ってでも動きなさいよ!」
それでも世賭は、ソファに身を沈めたまま動かない。
(世賭は、自ら影に縛られ続けてるんだ)
「世賭が行かないのなら、私一人で翠を助けに行く。私一人で翠を取り戻す。私は世賭と翠を護るって、そう決めたの。世賭と翠が仲間だと言ってくれた日から、私はそう誓ったの。二人を護るためなら、もう一度戦っても構わないって、そう思ったの。だから私は、影を撃って撃って撃ち続けて、走るわ。影にがんじがらめにされて動けない翠を、迎えに行く」
テーブルに置いてあった銃を掴み、アリカは部屋の扉に手をかけた。
「一つ、言っておくわ。要と棗がどうして翠を連れて行ったのか、ようやくわかった。彼らは“聖”の刺客。翠は私をおびき寄せるための餌――― それを理解した上で、どうするか考えなさい」
その言葉を聞いて、ぴくりと動いた世賭の姿を見もせずに、アリカは家から出て行った。
――― 残ったのは、自ら影に縛られ続ける一人の青年だけだった。
...第五話後編に続く
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