[First Day]
私は柏木帷を殺そうと決断した。
*
六畳程度の私の部屋は、ガタガタと軋む窓から注がれる赤い夕日の光によって、何とも奇妙な色に染まっていた。
ボロアパートというほどボロいわけではないが、約二十年の月日を経た此のアパートは築二十年に見合うだけの軋みと歪みを部屋に与えている。私はしがない一人暮らしの大学生で、そして何気に此のアパートを気に入っていたため其の軋みと歪み、其の他諸々は気にならなかった。
だが気に入っているとは云え、別段大切にしている場所でもなかった。確かに住む場所は必要であるが、此のアパートに其れ以上の想いは特にない。
今通っている大学も三流以下で、親しい友人は片手で数えられる程度どころか親指と小指は使わない程度しかいない。楽しい事も目指す事もない。ついでに云えば、青い春とも縁がない。
父も母も私が幼い頃に死んだ。親代わりであった兄もつい此の前死んでしまった。
何が云いたいのか、詰まる所、私は捨てても構わないものしか持っていないと云う事だ。
要するに、だ。
私は全てを捨てられる。
私は何をしても私の大切な人に迷惑をかける事がない。
私は私しかもう持っていない。
私は、私は、私は。
―――さて、柏木帷を殺しに行こう。
*
柏木帷は十三歳、近所の市立中学校に通う一年生である。両親と三人で普通のマンションに住んでいる。
常に無口で無表情、内気と云うよりは暗さを感じる性格である。しかも人を寄せ付けないオーラを纏っており、親しい友人はほんの一握りもいないと思われた。たまに同じ小学校である少年少女と喋る程度の付き合いしかしていないようだ。
此の情報は、彼女のうちの近所に住む彼女と同級生の少年から聞きだした。彼は通りすがりにいきなり「柏木帷を知っていますか」と問うた私に気兼ねも不審な素振りもなしに柏木帷の情報を彼が知っている限り全て話してくれた。どうやら彼は彼女と仲は良くないが同じ小学校であったらしい。東堂穆矢と名乗った。
最近の子供は常に携帯を持ち歩き見知らぬ大人にはこっちが驚くほど冷たい態度を取るものだと思っていたが、彼は警戒心と云うものとはかけ離れた心をしており、私は好感と感謝の念を彼に抱いた。
ともあれ、今日私は其の情報を持って彼女を誘拐し、暫くの間監禁して殺すと云う計画を実行する事を胸に誓った。
*
彼女の通学ルートは一応脳内の奥底に仕舞いこまれていた。其の通学ルートの中には私の家から徒歩三分程度で着く○○公園も含まれており、其処で誘拐を行う事にした。
○○公園は小さく遊具もほとんどない。あるのは錆びたブランコと猫の額ほどもない砂場だけである。其のおかげで此の公園には誰も訪れない。私にとっては此の上ない素敵な公園であり、とても好都合な公園だ。
午後四時三十六分前後、彼女は其の公園を横断する。今日も例外ではなく、彼女は公園を悠々と横断し、ブランコに座っている変な大学生(=私)を不審な目で見る事もなく無表情に通り過ぎようとした。
彼女誘拐時の話は此処ではしない事にする。私がただの犯罪者に成り下がってしまうからだ。否、確かに私は彼女を誘拐し殺そうと考えている時点で犯罪者なのだが、私は「ただの犯罪者」ではないのだと主張したいのであった。愚の骨頂である。
兎にも角にも私は彼女を誘拐する事に成功し、六畳程度の私の部屋に彼女を置いた。
*
包丁とは、食材を切断または加工する為の刃物で、調理器具の一種である。和包丁、洋包丁、特殊用途の包丁を備えた包丁に大別出来る。因みに和包丁と洋包丁では構造が異なり、厳密な区別基準と云うものは存在しない。刃の素材は鋼鉄やステンレス、セラミックスが一般的である。
何が云いたいのかと問われれば、包丁は一家に二つ以上はあり手頃に入手可能な凶器である、と私は答える。そして決して包丁は人を斬ったり刺したりするものではなく、主に食材を切ったり刺したりするものだとも云っておこう。
だが私は某黄色と黒のコントラストが眩しい百貨店にて購入した包丁で、柏木帷を殺そうと思っている。
ホームセンターで購入した縄で縛られた柏木帷は、同じくホームセンターで購入したガムテープを口に張られ、畳に転がされている。因みに抵抗したのは最初(拘束したとき)のみで、其の後は一切動かず薄い胸を上下させ瞬きをする程度の運動しか見せていない。
食事をさせるべきかどうか迷ったが、そう何度も厠に行かれても困るので一切与えない事にした。どうせ一週間以内には殺すのだ、餓死はしないだろうと予測する。
―――彼女の両親はきっと、娘が帰って来ない事について何の感情も抱いていないだろう。今は午後九時十二分であるから、夫婦揃ってテレビでも見てバラエティを楽しんでいる頃か。
全く薄情な親共だ、と云いたくなるが、本来其れを云うべきなのは娘である柏木帷であろうから、私は黙っている事にした。そう云う家庭である事は彼女も私も両親も判っている事で、私にとってみれば好都合なのだ。
(……否、そうとも云えないな)
其の家庭環境こそ、私が柏木帷を殺す所以なのだから。
ともあれ、柏木帷を捜す者など存在しないのだ。彼女は此のまま、少なくとも一週間後には私に殺される運命にある。
*
隣人が出かけて行った事を確認し、私は柏木帷の口に張られているガムテープを取った。
何と声をかければ良いのか判らなかったので、私は黙っている事にした。そうすれば此の部屋には静寂が訪れるだろう。
だが予想と反して、柏木帷が口を開いた。
「貴方は、」
はっきりとした口調だった。
「私を殺すんですか」
答えるべきか、迷った。彼女は何の感情も浮かんでいない顔で畳を見ている。
「そうだよ」
さらり、と彼女の髪が揺れた。肩あたりで切り揃えられた焦げ茶色の髪。彼女の両親は果たして、此の髪に優しく触れた事があるのか。と何やら感慨深いものを感じさせる髪の毛である。
「私は貴方を知りません」
「だろうね」
「では何故殺すんですか」
「君からすれば、理不尽であろう理由がある」
「教えてくれないんですね、私は当事者なのに」
「そうだな、何度リセットして世界をやり直しても君は私に殺されるぐらいの事をやり、そして私は理由を一切告げずに君を殺すよ」
「其れは如何でしょう」
「何を根拠に」
「……」
彼女は其れから一切言葉を発さなくなった。殴っても蹴っても、彼女は応えなかった。
灰色に澱んだ空が、軋む窓から見えた。
*
無数の青痣が彼女に出来ていた。私が殴ったり蹴ったりしたからだ。あのときは何故だか自分でも判らぬままに激情してしまい、そんな行動を取ってしまった。後悔はしていなくもない。愚の骨頂である。
柏木帷は死んだように眠りこけていた。現在の時刻は午後十二時一分、私も彼女もかなり寝坊している。
午後三時を過ぎても彼女は眠っていた。今日は晴れていて、きっと夕日が見られるだろう。
*
午後四時三十六分。奇しくも彼女を攫ったのと同じ時刻に、事は起こった。
美しい夕日が軋む窓から赤い光を注ぎ、未だに眠り続ける彼女と彼女の肌と畳を赤く彩らせた。私だけが暗い影の中にいるように錯覚した。
不意に、玄関の戸が叩かれたような気がした。耳を澄ますと、確かに控えめな音で戸が叩かれている。
如何してインターホンを鳴らさないのか。
ちゃんと深く押さないと鳴らないポンコツではあるが、インターホンはある。如何して其れを使わないのか。
(まるで彼女を起こさないようにと気遣っているようだ)
そう思ってしまうような、戸の叩き方であった。
私はゆっくりと立ち上がった。最近、既に癖か習慣になったかのように立ち上がるたび襲われる立ち眩みに暫く耐え、治まってから玄関へと向かった。
「今晩は」
扉を開けると、其処には一人の少年が立っていた。
*
夕日が差し込む六畳程度の部屋の中、眠っている柏木帷の傍らで、私と少年は座って対峙していた。さっきからずっと、ぞわり、と何かが這い出るような感覚に襲われていた。
彼女と彼女の肌と畳は赤く染まっていたが、私と少年は暗い影に覆われている。
「柏木さんを救いに来ました」
「……如何して、此処が」
「じゃあ如何して貴方は柏木さんを誘拐したんですか」
「殺す為に」
「では何故殺すんですか」
「君と彼女からすれば、理不尽な理由がある」
「教えてくれないんですね」
「そうだな、何度リセットして世界をやり直しても彼女は私に殺されるぐらいの事をやり、そして私は理由を一切告げずに彼女を殺すよ」
「其の分だと、柏木さんにも教えていないようですね」
華奢な其の少年は不気味以外の何者でもなかった。彼女を助けに来たと云うのに彼女には一切触れない。
「じゃあ僕も如何して此処に柏木さんがいると云う事が判ったのか、教えない事にします」
ようやく、少年は動いた。其の華奢な身体に反して其れなりに力はあるようで、眠っている柏木帷を軽々と抱き上げ背負い、立ち上がった。
「云って置きますが」
「……」
「何度貴方が彼女を殺そうと、世界をやり直しても」
「………」
「僕は其の度に其れを阻止する事にします」
「…………」
「其れでは、然様なら」
気がつくと、夕日は疾うに沈み、部屋は薄暗くなっていた。
ああ、と少年が呟き、ゆっくりと振り返る。少年の瞳は柏木帷以上に、何も映していなかった。
「もう一つだけ、云って置きます」
かみさま、と私は心の中で呟く。
「僕の名前は、」
出来る事ならばもう一度、世界をやり直させて下さい。そして、私は今度こそ、柏木帷を殺す。
...Second Dayに続く
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